小生は性善説なるものを知った中学の頃から、
心情的に、あるいは体感的に否定する者であった。
また、性善説に関する有名な故事について知った時、
性善説は理論的にも成り立っていないと確信した。
本日はその確信について書く。
人間はだれでも、他人の悲しみに同情する心をもっていると いうわけは
今かりに、子供が井戸に落ちかけているのを見かけたら
人はだれでも驚 きあわて、いたたまれない感情になる。
子供の父母に懇意になろうという底意があるわ けではない。
地方団体や仲間で、人命救助の名誉と評判を得たいからではない。
これを 見すごしたら、無情な人間だという悪名をたてられはしないかと思うからでもない。
このことから考えてみると、いたたまれない感情をもたぬ者は、人間ではない。
孟子先生曰く、井戸に落ちそうになっている子供を見て、損得関係なく助けるのは、
人間が他人に同情する心(善なる心?)をもっているからだ。
ということになる。
この例の大きな過ちは、人間にとっての損得は、
お金や地位や評判といった、直接的,間接的な実利のみを指していることである。
この井戸に落ちそうになった子供を助けた者は、実利以外の利を得ている。
すなわち利得者である。
実利以外の利とはなにか。
精神的な満足である。自己満足というやつである。
あるいは井戸に落ちた子供をみてしまっては寝覚めが悪いと思っての行動かも知れぬ。
これだけ聞くと、小生の屁理屈とおもわれるかもしれない。
しかし考えてみてほしい。
ただ自分の感情の赴くまま、助けたいと思ったものを助けた。
それを『善行』と定めた場合、
これすなわち偽善者である。
自己満足を、他人を利用して、他人のためにやったと悦に浸るのだから、なんたる偽善だろうか。
『善』と呼ばれる行動を成すことによって、自分が満足するという利を得ている。
「他人のことなどどうでも良いが、自分が助けたいと思ったから自分の満足のために助けた」というのであれば
全く反論はないが、これを人間が『善』である証左と言われると反論せざるを得ない。
例えば考えてほしい。
赤子が飢えてひもじくてどうにも成らない状態で井戸から落ちかかっていたとしよう。
すでに母にも見捨てられた子供は、助けられて幸せなのだろうか?
また飢えに苦しむよりも、偶然のまま命をあっさり閉じたほうが楽だったのではないか?
今度は飢えた母子にしようか。
もう子供の面倒なんて到底見きれないが、母として子供を絞める決心もつかぬ。
そんな折、井戸から体を乗り出した我が子。
そのまま落ちてくれれば事故として折り合いがつく。
しかし『善』なるものが現れて、赤子を助けて満足げに何処かへ去っていった。
母はもうなおさら決心つかずして、母子共々飢えて死んだ。
『善』なるもの、酒場で酒をたしなめながら
「いやぁ、あの時は間一髪だったなぁ」と満足気な赤ら顔である。
小生が思う『偽善者』足らざるものを、孟子先生は「人間ではない」と切って捨てている。
なにも井戸と赤子の話に限ったことではない。
ニートに説教、乞食に施し、年寄りに席譲り。
これらのことは相手が望んでいるかどうかわからないことである。
仮に相手が望んでいたとしても、それを行ったから良くなるとは限らない。
悪くなることだって十分にある。
君の『善』なる説教を聞いてますますやる気を無くすニート。
やる気になってブラック企業に入って絶望し自殺するニート。
自分は『善かれ』と思ってやっていても、結果はどうなるかわからないのだ。
だから何も他人には影響を及ぼしてはならない、ということではない。
生きているだけで否応なしに他人に影響は及ぼす。
『善かれ』と思おうが思わざろうが、影響はある。
だから他人を助けたいだとか、手伝いたいと思ったときは
「自分の感情を満足させるために…とどの詰まり自分の都合で行うのだ」
という当たり前のことを心に留めおいてほしい。
無論このコラムも『我侭』で書いている。
他人とはそういうモノではなかろうか。
コラムを書くにあたって、性善説を調べてみたのだが
小生が否定した性善説と、実際に孟子先生が解いた性善説とはかなりイメージが違うものだった。
ネットの辞典では
せいぜん-せつ 【性善説】
人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、 悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとする説。正統的儒学の人間観。孟子の首唱。
となっているが・・・
其の上でもう一つ否定しておく。
小さい頃から虫を殺したり動物をいじめたりする破壊的な者と、
何かを傷つけることを嫌がる(恐れる)子供がいる。
それと近年、犯罪者になる遺伝子が発見された。
先天的に人間全部が『善』,『悪』と決めることは出来ない証左でなかろうか。
しかし孟子先生が解いた性善説は辞典よりさらに意味合いが深いものである事を付け加えておく。
私は、人間には生まれつき性悪説と呼ばれるような魂の持ち主と、性善説と呼ばれる魂の持ち主が
あるような気がする。
ことことについては、昔ラジオで語った
「人口が多すぎて、輪廻転生の再に昆虫の霊が入った人間が基地外犯罪を犯す説」
に通ずるところである。
ある意味、孟子先生曰く所の「人間ではない」にも通ずるのかもしれない。
なにせ昆虫なのだから。
これもまた後日コラムに認めようと思う。
性悪説を唱えたのは荀子という人。
この人に習ったのが韓非。
其の影響で韓非は性悪説を撮るようになったと言われる。
しかし性悪説の唱え方にしても、荀子と韓非子ではかなり違う。
荀子は性悪説について
「人は生まれながらにして悪なるもの(欲望に弱い物)であるが、
教育などによって善なるものに成ることができる」と説いている。
韓非子では性悪説について
「人間は実利に対して忠実であり、其れは一生変わらない」
と置いている。
小生は韓非子サイドの考えである。
自己犠牲を含めた、世に言う善行も、
自分がそうしたいという感情を満足させるために行われることだ。
Yes,Lolita No,touchも自己満足の一環であると考える。
人はあらゆる意味で自分のために生きるべきだ。
それを金や社会的地位やモテといった、他人の価値観で生きようとするから無駄に苦しむ。
逆に金やモテに本当に価値を見出している昆虫的な連中は、全力でそれらに向かえるから
、現代社会において上手くいく。
彼らを支援しているのは、其のような現代社会を支え構築する者達。
すなわち自分を捨てて流行りの価値観に乗っかる
魂を失った屍鬼(起き上がり,living dead)共であろう。